人ひろば11「奥沢・玉川の旧い話―「自由が丘駅」は昔「九品仏駅」だった」 千野一彦

千野一彦(ちのかずひこ)
1938年、東京奥沢生まれ。東芝EMIで芸能邦楽プロデューサーを務めたのち、平成元年に退社してフリーになり、芸能評論家、藝能学会会員、民謡プロ協会員、作詞家などマルチに活躍。

行政の区切り

 「ここにいながらこの周辺を旅してみよう」というのが私の今日のテーマです。いまご紹介いただきましたが、肩書なしでやっています。民謡の会に行くと民謡研究家、お芝居関係に行くと演劇評論家、作詞グループに行くと邦楽作詞家になる。あるときは邦楽音楽プロデューサーになったり、マルチでやっていますが、マルチで困るのは行政です。例えば駅に降りて駅前の地図を見たときに、通り一つ挟んで違う行政だと何も載っていなくて真っ白な地図になっていることがある。それは行政の区域であって人間の生活のエリアではないわけです。西武線の東伏見の駅に行きますと、駅前の地図は、東伏見の神社のほうにはいろいろ描いてありますけれど、すぐ隣の公園は何も描かれていない。駅を降りるほとんどの方はその公園に行きたいんですが。あるいは世田谷の奥沢の図書館に行きますと、世田谷区や奥沢に関する本はたくさん置いてあるんですが大田区や品川区、目黒区に関するものは置いていない。そこが行政の問題点で、線を引きたがる。みなさんは世田谷区で電車に乗り大田区や渋谷区へ行かれる。それが人が生活している動きなんです。ですが、行政は線引きしたがる。私がちょっとあるエリアを調べたいと思って図書館に行くと大田区品川区目黒区とぐるっと回って調べなければならない。
 お渡しした資料の一枚目、鷺ノ谷とあるところの境のすぐ外が自由が丘です。鷺ノ谷のすぐ隣が奥沢の八幡様、その隣の諏訪山というところが奥沢の商店街や駅前です。こういったものが行政の管轄になると奥沢何丁目何番地、というように区切られてしまった。
 二子玉川は古い地名では玉川地区ですが、二子っていうのは川の向こう側の地名なんですね。二子の渡しという渡し船があった頃は江戸から大山街道を二子に渡るから二子の渡しであって、向こうからこちらへ渡るのは玉川の渡しと言われていました。

江戸時代の人の行動範囲と自由が丘駅の成り立ち

 昔は道を行くよりも沿岸を船で行ったほうが早かったんですね。江戸の末期に大山参りというのが流行ったことがありましたが、そのときもお金持ちは船で江之島まで出て大山へ入るということもありました。新橋を出発点として宿場の品川まで2里、これは江戸の人が歩いて遊びに行く範囲です。振り返ってみれば自分も子どものころ2里範囲を歩いて遊んでいた。上は登戸のあたりまで、下は羽田まで歩いて行っていました。品川から多摩川を渡って川崎へ、川崎は大火事で何度も焼け、戦争のときにも焼夷弾で焼けてしまったので、昔の宿場の面影は残っていません。川崎から保土ヶ谷、戸塚と、昔の人は10里くらいは歩いていました。約十時間、足の弱い人でも神奈川どまりなので神奈川は非常に重要な地だった。だから東横線も神奈川をめざして開通したんですね。ここまでは東海道を通ってみましたが、品川から南へいく池上道というのがある。江戸城の虎ノ門から出ている道が中原街道です。中原街道の洗足池から少し行くと池上本門寺に出ます。これをまっすぐ行くと多摩川に出ます。南へ行くと矢口の渡しです。赤坂御門から出ているのは大山街道です。三軒茶屋で二つに分かれ終点は下高井戸です。四谷の御門から出ている道は甲州街道で最初の宿場は高井戸。高井戸までは遠いというので途中にできたのが新宿です。これは内藤さんのお屋敷の土地を頂戴してつくった宿場なので内藤新宿と呼ばれていました。このような地形の中で奥沢・自由が丘というのは真ん中へんのなにもないところです。なにもないところだから、新しいまちづくりをしよう、というのにふさわしい土地だった。そこで田園都市をつくるにあたり、渋沢栄一さんが相談したのが小林一三さん。小林さんは阪急電車をつくった方です。電車だけでなく土地を開発して宝塚という遊園地をつくり、温泉も開発した。そこで小林さんが知人の五島慶太を渋沢さんに紹介し東横線の開発が進んだのです。そこで今日の題名、「自由が丘」駅は昔「九品仏」駅だったというお話につながるわけです。最初は本当に自由が丘駅は九品仏駅という名前だったのですが、大井町線ができたときに、九品仏の真ん前に駅ができてそこを九品仏駅としたいとなって、では元の九品仏駅の名前をどうしようかということになった。最初の候補は「衾(ふすま)」でした。衾という地名があったんですね。ところが衾町は碑文谷と碑衾(ひぶすま)という町名になってしまった。ちょうど昭和のはじめ、近くに自由が丘学園という学校ができて、どうも石井漠さんが「自由が丘」という駅名はどうかという案を出したようです。

「江戸名所図会」から:東海道

藁細工(『江戸名所図会』より)

 それではこの付近の歴史について「江戸名所図会」という資料を使って鉄道に沿って見ていきましょう。「江戸名所図会」というのは日本の最初の観光ガイドですね。まずは東海道の品川駅から。目黒川を境にして北品川と南品川に分かれていまして長い宿場町でした。子どもが遊んでいたりお座敷で飲んでいる人もいますね。遠浅の浜辺で潮干狩りもできました。海に突き出している料亭や旅館がたくさんありました。
 大井町というところは本当に大きな井戸があってその名前がつきました。井戸は今もあります。いろいろな細工物を売っていて、このへんはわら細工がお土産物にもなっていました。この習慣が奥沢神社のわらのヘビに通じているのかなと思います。
 大森の海苔をつくっているところ。ここでとれた海苔は浅草海苔と呼ばれ有名でした。そのため大森は大変栄えていました。昔の資料を見ると海苔の漁業権をめぐって訴訟を起こしたり喧嘩したりすごかったみたいです。
 六郷の渡しでは、船に馬が載っているのが見えますね。手前が川崎の宿場でここに渡しの役人がいました。
 東京で一番初めに私鉄の電車が敷かれたのは六郷の渡しから川崎大師まで。川崎にはまだ昔のホームが残っています。
 神奈川宿は非常に長い宿で、宿から降りる階段の下が神奈川の港、まだ横浜ができる前です。今でもその面影が地形に残っています。坂を上った先に今の東横線の神奈川駅があります。今でも料亭が1、2軒残っていまして、その1軒が坂本龍馬のおりょうさんが仲居さんで働いていたところです。

「江戸名所図会」から:玉電

 では玉川電車にいきましょう。玉電の若林のところに常盤塚というのがありまして、吉良の寵愛を受けていた常磐という女性が、いろいろ嫌がらせを受け自害してしまう。そのときに事情を書いた紙を白鷺の足に結び付け、その白鷺を偶然吉良が射って手紙を見つけ知らせを受けたという伝説があります。その白鷺を埋めたときに鷺草が出たということです。
 豪徳寺は吉良家がつくったお寺です。井伊直弼のお墓がありますね。吉良家のあとは世田谷の領地は井伊家がおさめていました。井伊さんが通りかかったときにお寺の猫が招いたので中に入ると近くに雷が落ち、お寺に入ったので災難を免れたという豪徳寺のまねき猫の伝説があります。
 蛇崩川の脇に葦毛塚というのがありまして、それは頼朝の馬が沢に落ちてしまい、そこに葬った跡とされています。
目黒の太鼓橋は大変立派な石橋でした。両側にお茶屋さんがありますね。目黒川は清流で富士山も見え、この周りは紅葉の名所でした。この先に目黒不動があり、ずっと坂を上ると奥沢に行きます。目黒の大鳥神社の森が鬱蒼としていますね。馬の飼育場もたくさんあり、この先に競馬場がありました。目黒不動の前には出世地蔵というのがあって、徳川二代目将軍の奥方が子どもを授かった記念に建てたものです。目黒不動の中には五百羅漢があって、それは東陽町のほうから持ってきたものです。
目黒から下丸子のほうに行ったところに光明寺というお寺があってそこに小さな池があるんですが、それは玉川が昔暴れ川であちこち蛇行したときに水が溜まったものなんです。
新田神社というのは新田義貞の息子新田義興が騙されて自害し、怨霊になってしまい、雷になって祟りを起こしたのでそれを鎮めるために建てられたものと言われています。
氷川神社と八幡様は渋谷と大田区、世田谷にやたらとあるんですね。渋谷の氷川神社、宮坂の八幡様には土俵があって、お祭りのときには力比べが行われました。力のある人には神が宿ると言われていました。
 祐天寺というのは、昔、器量の良くないかさねという娘さんをご亭主が殺してしまい、代々一族が祟られるということがあって、その霊を鎮めるためにつくられたものです。
武蔵小杉には将軍家の狩場の御殿がありました。
池上線の洗足池には袈裟かけの松があって、ここで日蓮さんが足を洗って袈裟をかけたと言われています。
池上本門寺には加藤清正が寄進したという石段があります。裏に松濤園というお庭があって、そこで幕末に最後いう隆盛と勝海舟が会談をしたという話です。
大井町線の荏原町という駅の脇にお寺がありその先に中延八幡がありますが、お寺さんと神社は奈良時代の神仏混交のときから持ちつ持たれつの関係でずっと続いています。お寺が神社の事務作業をしていて、それは別当と呼ばれていました。

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